先日ブログで、コッペリアの台本で舞台に設定されているガリツィア、コッペリアをつくったフランスにとってガリ
ツィアってどうだったんだろう。ということを書きましたがそれについて調べちゃいました。
調べ物をするときウィキっているだけじゃだめだと自分で思うので以下が参考文献です。
上にのっているのは関係ないけど世界一かわいいと噂の(我が家で)STABILOのえんぴつ削り。
さてガリツィアとは現在のポーランド南東部・東部からウクライナ西部にかけての地域を指す歴史的名称です。歴史的にはキエフ・ルーシが分裂し、12世紀にガリツィア・ヴォイルニ公国が成立し、その後まあこのあたりの人がみんな被害を被ったモンゴルの侵入を経るものの国際中継貿易の拠点として発展します。そして話が飛びますが18世紀の末にハプスブルク帝国に編入され、19世紀の初頭にはオーストリア領に、1867年にはオーストリア・ハンガリー帝国となります。コッペリアのリハーサルが行われたのが1868年ということですから(詳しくは『バレエの歴史 フランスバレエ史ー宮廷バレエから20世紀まで』佐々木涼子著)そのころにはガリツィアはオーストリア・ハンガリー帝国だったのですね。コッペリアの台本には時代設定がありませんが、オーストリア統治下のイメージなのかな。小さな町、最後には領主が出てきたりして。ガリツィアはある程度自治権をもっていたのだということです。
では、ガリツィアってフランス人にとってどうだったのというところです。ガリツィアはポーランド人が多数派ですが、ガリツィアじゃないほうのポーランドはロシア帝国の支配下にあります。19世紀に入るとロシア支配に対するポーランド人の蜂起が相次ぎ、それに共感したフランスではオーベール(バレエ、グランパクラシック作曲の人)が「ワルシャワの女性」という歌を作曲しパリの民衆によって歌われたということです。1846年西ガリツィアでは農民一揆がおきており、ポーランド人農民がリベラルな地主を虐殺、オーストリア軍に鎮圧されています。その後もポーランド全体では、ロシアに対する蜂起がおこり、数十年にわたって多くのポーランド人がフランスに亡命しています。ポーランド人たちはパリに政治、文化組織を作り、1848年(フランス革命の年です)パリでは数千人の市民が「ポーランド万歳ヴィヴァ・ラ・ボロンニュ!」と叫んでフランス下院になだれ込んだのです。つまりパリ市民にはポーランドに対する共感があったといってもいいでしょう。ガリツィアの地名も蜂起の際に「ガリツィアの虐殺」として知られていたことは想像に難くありません。パリのひとたち、「なんかいろいろ大変だよなポーランド人」と思っていたことでしょう(妄想)。
ところでコッペリアはキャラクターダンス(民族舞踊)を大々的に取り入れた最初のバレエと言われています。振付家のサン・レオンは、各地を旅行中に覚えた民謡を盛り込むために、バレエの舞台を「砂男」のニュルンベルクからガリツィアに変えたのだそうです(『バレエの見方』長野由紀)。ポーランドやハンガリーの手が出てきまよね、はたまたスペインやスコットランドの踊りまで出てきます。こないだうちの教室のこどもたちに「スワニルダはコッペリウスのおうちでどんな踊りをおどるの?」と聞いたらみんな「スペイン!」と知っていて感心しました。
というわけでガリツィア、なかなか興味深い地域です。今回は関係ないので書きませんでしたが、ポーランド人のほかにウクライナ人も住んでいて、ガリツィアはウクライナ民族主義の中心地でもあった。バレエって別に歴史考証とか全然しなくていいんだと思うのですが、ちょっと気になったのでしらべてみました。日本だと耳慣れない地名だと思うので。英語表記のガリシアを多くの人が使っていました。
ところでボリショイのコッペリアの衣装はすごくガリツィア公国の国旗と配色が似ていてさすがやわと思いました。